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慌ただしい現代生活において、書は心を落ち着かせ、情操を豊かにしてくれる。(林格立撮影)
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書法は中華文化の土壌に開いた美しい花である。華人の祖先は文字を書く道具として、柔らかく弾力性のある毛筆を選んだ。漢字を書くという行為が実用から芸術へと昇華する鍵となった要因は、墨を付けた毛筆と紙が触れ合う瞬間の、互いの抵抗と融合から生じる陰陽と弾力にある。時間の推移とともに、書き手の心の変化がそこに現われ、無数の生命の奇跡が残される。
台湾の当初の住民はマレー・ポリネシア系の原住民族で、狩猟生活をしていた彼らは文字を持たず、字を書くという行為はなかった。後に、中国大陸の福建省や広東省の農民が、生命の危険を冒して「黒海溝」と呼ばれる台湾海峡を船で渡り、台湾に移り住んで開墾を始めた。
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晋の王羲之の奉橘帖は唐代の模写である。王羲之は「書聖」と称えられ、その真跡は一つも残っていないが、作品は常に書法愛好家の模写の対象である。(国立故宮博物院提供)
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こうして、台湾の最初の書法は中国大陸から伝えられた。文献によると、台湾住民が系統だって漢文化を学び始めたのは、明末の遺臣沈光文が台湾に移ってからである。沈光文は明末の儒士だったが、明朝滅亡の後、明復活のために奔走し、1651年に台湾に漂着した。台南に定住すると、塾を設けて台湾人に読書作文や漢字の手習いを教え始めた。こうした経緯から沈光文は「台湾文献の祖」と呼ばれている。
台湾の歴史は、オランダ、明の鄭氏、清朝、日本、そして国民政府の各時期に分けられる。支配者が代わり、文化政策が変わるに連れて台湾書法も異なる発展を見せる。オランダ時代は書法とは関わりがなかったが、その後の発展は五つの時代に大別できる。
明鄭氏時代(1661−1683年)
1661年、明朝の遺臣である鄭成功が兵を率いてオランダ人を駆逐し、台湾に南明小朝廷を発足させ、中国大陸において明朝を復活させるための基地とした。多数の明朝の王族や文武官僚、文士が台湾に移り住み、そうした中には詩文や書法に優れた学識者も多かった。寧靖王朱術桂や陳永華らである。視野が広く先見の明があった彼らは、台湾各地に書院を設けて文化教育を推進し、中華文化が初めて大規模に台湾に伝えられた。これは台湾における漢学と書法発展の啓蒙段階である。
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楷書で書かれた大清世宗憲皇帝本紀。(国立故宮博物院提供)
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清朝時代(1683−1895年)
清の康熙22年(1683)、施琅が軍を率いて台湾を攻略し、明鄭王朝の時代は終わり、台湾は正式に清朝の国土となった。4年後、清朝は台湾にも科挙制度を広げ、これが台湾に勉学の気風を起こしただけでなく、台湾の書法教育の長期的な発展にもつながって堅固な基礎を築いた。経済が発達するに連れ、台湾の文士はしだいに洗練された文化芸術活動に従事するようになる。加えて、赴任や招聘などで大陸から一流の文士が訪れるようになり、台湾と中国大陸の文化的距離は縮まっていく。光緒年間になると、台湾文士の漢学の基礎は深厚なものとなり、科挙に合格する者も激増した。この頃、台湾にも少なからぬ書家が育ったが、多くは先人の書風を模したもので、派手で気取った「館閣体」の範囲を抜けておらず、林朝英ら少数の例外を除いて独自の風格には至らなかった。この時期、台湾書法の基礎が築かれた。
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漢字は甲骨文字に始まり、ついで金文、字体の変化および毛筆の完全な運用によってさまざまに変化し、魏晋南北朝の頃に篆書、隷書、草書、楷書、行書の書体が定まり、今日まで伝わっている。以下は「虎」という字体の変化である。
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甲骨文
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金文
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篆書
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隷書
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草書
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楷書
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行書
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日本統治時代(1895−1945年)
1895年、清朝は台湾を日本に割譲した。日本政府は強力に同化政策を推し進め、科挙制度がなくなったのはもちろん、「学びて優なれば則ち仕う」という学問による官吏登用の道も途絶えた。さらには、台湾と中国文化を結ぶルートを絶つために、文士の中国大陸との往来も禁じられた。台湾人は「二等国民」とされ、生活上の権益は制限され「台湾史の暗黒期」(陳奇禄)と言われる時代に入った。文士たちはその悲憤を発散する場がなく、転じて詩社を結成して吟唱し、筆を振るって互いに観賞し、慰め合った。一方、一部の台湾人は日本の書法の専門的訓練を受け、しだいに実用性や装飾的なスタイルを脱して芸術への道を歩み始めた。ただ、漢文化の素養が不十分だったため、曹容の他には自立できる者はなかった。だが、植民地政権は詩文や書画の活動には殊のほか寛容で、民間の団体結成や展示活動は盛んに行なわれ、書法は空前の繁栄を見せた。書法の活発な活動期であった。
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清代の台湾人、林朝英(1739-1816)は書にも彫刻にも造詣が深く、清代台湾で唯一の芸術家とされている。今でも各地の寺廟にその墨跡が残っており、この拓本もその墨宝の一つである。(国立台湾大学図書館提供)
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国民政府前期(1945−1987年)
1949年、国民政府は台湾に移転した。この時、故宮博物院や中央研究院、中央図書館などの第一級の文物が台湾に持ちこまれただけでなく、政府とともに中国大陸各界のエリート層が台湾に移ってきた。中国大陸各地の精鋭が狭い台湾に集まり、台湾は華人文化の精髄を復興させる基地となったのである。歴史的に前例のない文化的密度である。書壇には、于右任、董作賓、溥儒、臺静農、王壮為など、学術と芸術に秀でた著名人が名を連ねた。彼らは文化芸術界の指導者でもあり、創作の他に教育や後進の育成にも力を注ぎ、台湾の学術発展と書法教育に大きく貢献し、新たな希望をもたらした。台湾書法に新たな血が注がれる時期であった。
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「硯」は文房四宝のひとつ。写真は清雍正松花石葫蘆形硯。(国立故宮博物院提供)
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戒厳令解除以降(1987年−)
1987年に「動員勘乱時期臨時条項」が廃止されて戒厳令が解除され、中国大陸との交流が再開された。人々は精神的にも解放され、台湾は自由民主主義の時代を迎えた。国民政府とともに大陸から渡ってきた書家もしだいに世を去り、次々と異質な文化の衝撃を受け、若い世代はそれまでの伝統的創作モデルから抜け出して、新たな意識が芽生え始めた。彼らは伝統の碑文帖を模写する他、出土した簡牘帛書(札や絹に書いた書)を参考とするなど、新古典主義的スタイルの作品が少なからず生まれた。ここから進んで伝統と実験性を備えた創作が盛んになり、台湾の現代書芸は多様な発展を見せ始める。百花斉放の時期である。
現在、公私立の美術機構や民間では初期の書家の墨宝がコレクションされており、時代ごとに異なるスタイルを鑑賞することができる。また、台湾各地の名勝や寺廟、公私立の各種機関などでは石碑や額、柱などに刻まれた文字や看板、墨宝などが見られる。これらは生活に密着した、身近に触れられる書であり、歩みを緩め、心を落ちつければ、至るところで先賢や現代書法家の作品を楽しむことができる。
毛筆の書法の最も難しく玄妙なところは、塗り足しや書き直しが許されず、一気呵成に仕上げなければならない点で、高い技巧が求められる。点や線が豊かで力がみなぎり、精と気と神に満ちていることが求められるだけでなく、前後の筆画の間に気脈が通じ、一つひとつの文字と全体が、内部から外部まで調和の取れた有機体となっていなければならない。こうした哲学性と精神性こそ、まさに東方の智慧実践の重点と言えよう。
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曹容(1895-1993)は近代台湾を代表する書家で、書芸の推進に力を注いだ。これは孫文生誕百年を記念して書かれた作品。(中国文化大学 華岡博物館提供) |
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王壮為(1909-1998)は近代の書家、篆刻家。その書と印が相まった味わい深い作品で知られる。写真はその隷書作品。(中国文化大学 華岡博物館提供) |
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東アジアの近隣―日本、韓国、ベトナム、シンガポール、マレーシアなどの「漢字文化圏」各国にも書法があるが、それらは古代中国から伝わったものだ。台湾と中国大陸では「書法」と言うが、韓国では「書芸」、日本では遣唐使が持ち帰った時代の「書道」という言い方が伝わっている。名称は異なるが、指すものは同じである。今日、歴史的偶然から台湾は世界で唯一「正統の漢字」を受け継いでいる地域であり、それと同時に中華文化伝承の中心地となっている。書法芸術はこの肥沃な土地で、美しい花を開いたのである。
著者:杜忠誥
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紙が発明される前、多くの文書や書籍は竹簡に書かれた。(陳美玲撮影)
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